***

 

 小さな田舎町で、殺人とおぼしき事件が起こった翌々日。
 軽井沢署に、監察医から検死の報告書が届いた。
 前頭部の挫傷が直接の死因であり、凶器は現場に残されていた被害者の血が付着した青銅の花瓶と断定。
 調査の結果、傷口も一致。
 胃の内容物、死後硬直、死斑、眼球角膜の混濁の状況等から死亡推定時刻は遺体発見当日の午前一時から翌午前二時の間と推定。
 と、そんな様な事が、事細かに書かれていた。
 だが、その報告書の最後の方に添えられていた事柄に、捜査陣は色めき立った。
 解剖の結果、被害者が妊娠してた事が判明したのだ。
 被害者、大野りんは、妊娠第十八週目に入っており、胎児の血液型はABO式でB型。
 夫の秀明氏はA型。被害者はO型であった事から、彼女が身籠もっていた胎児は夫婦の間の子供ではないと云う報告だった。
「これは、立派な動機だ」と、捜査会議で課長が声を張り上げた。
 栗田も、その意見には賛成だった。
 二人の血液型からは、明らかに生まれてこない血液型の子供を、被害者は、宿していたのだから…姦淫した方にせよ、された方にせよ、彼女を殺す立派な動機になり得るではないか。
 これは、栗田一人ではなく、捜査員全員に共通した思いだったらしい。
 又、鑑識からの報告には室内調査の結果、床から被害者の血を踏んだと覚しい、サイズにして二十六センチ程の足跡が発見されたとあった。
 二十六センチと言えば、常識で考えれば男のものであるし、床や壁に飛び散った血痕から、犯人の身長も、百七十センチ前後と割り出された。
 そんな事情から、捜査の対象は、夫である大野秀明及び、被害者と不倫関係にあった誰か、と云う所に落ち着いた。
 そして、当面はその誰かを探すことに全力を尽くす事になったのだ。

「暗くなっちゃうよなあ……」
 その捜査の途中、栗田刑事は、黒沢刑事と町外れの喫茶店で休憩を取っていた。
 コーヒーカップをやたらとスプーンで掻き回したい気分だった。
「何が?」
「仏さん…さ、お医者様の所に、東京から嫁いできた人って、彼女の家の辺りじゃ有名だったろう?影で色々と言われててさ。これがさ…不倫してたとなると…死んでまで近所のババアにくどくど言われるんだろうなって思うと、暗くなんない?」
「別に。だって自分が不倫してたんだろ?ある程度、仕方ないよ。一々情を掛けてると、身が持たないぞ」
「まあなあ……」
 相棒の言葉に肩透かしを喰い、彼はコーヒーを一気に飲み干した。
「人間不信になっちゃうなあ…」
 言い捨てて、大きく伸びをし、席を立つ。
「そういう商売だ」
 同じく立ち上がった黒沢に、あっさりと言われて、少し気落ちしながら彼は喫茶店を後にした。
 あの奥さん、確か教会に通ってるって言ってたっけ…。
 汝、姦淫することなかれって…キリスト教の言葉じゃなかったかな…。
 はああとやり切れなさを溜息と共に吐き出し、栗田はパトカーのハンドルを握った。
 これから、大野秀明の職場に聞き込みに行かなければならない。
 例え町中に死者の噂が広がったとしても、例え姦淫の罪を犯していても、彼女を殺した犯人は捕まえなければならなかった。

 

 まず、二人が訪れたのは、事務局だった。
 事件当夜の秀明のスケジュールを確認するためだ。
 本人は一晩中病院にいたと証言している。
 問い合わせた結果、確かに彼は当直医に当たっていた。
 事務局の資料には、もう一人、産婦人科の医師が残っていたと記されている。
 何でも夕方に産気付いた妊婦の出産が思いの他手間取り、全てが終わったのが真夜中の十二時を回っていたせいだとか。
 二人は、取り合えず、その医師に事情を聞いてみることにした。

 

 看護婦に通された応接間に現れた医師は、
「御苦労様です」
 と言いながらも、警察の人間を余り歓迎してはいないようだった。
「まず、お名前から聞かせて頂けますか」
「鳥居です。鳥居肇」
「鳥居先生ですね」
 尋ねながら、栗田は思わず鳥居の値踏みをした。
 明るい、スポーツマンタイプと言ったところか。爽やかさを感じる。
 きっと、爽やかさを強調するくらい清潔でないと、産婦人科の医師は厭らしい親父と評価されるのだろう。
「で、今日はどんなご用件で?」
 栗田の思考を遮るように、鳥居が尋ねてきた。
 警察との対面は、さっさと終わらせたいらしい。
「大野先生の、奥さんの事ですか?」
 話の展開は、早かった。
「ええ、まあ。その関係でして…。事件当夜鳥居先生は、遅くまで病院に残ってらっしゃった筈です。失礼ですが、いつまで病院に残っていらっしゃったか、教えていただけませんか?」
「あの日…ですか…。ええと…一昨日は、夕方運ばれてきた患者さんが意外と難産で、十二時過ぎまで分娩室の方にいました。それから後始末を終えて、ナースステーションの方に帰ってきたのがそれから二十分位後でしたかね。で、一階の方に下りていきましたら大野先生が当直でいらっしゃったんで…暫く喋って…。帰ったのは、大分遅かったですね。四時近かったかな?色々と後片付けもあったし」
「大野先生とはどれ位、ご一緒でした?」
「……さあ。三時間位ですかねえ…。一昨日は、救急の患者さんもいなかったもんですから、大野先生がこのままじゃ寝ちゃうよって言うからコーヒー飲んで付き合って、その後僕の方の片付けも手伝って貰いましたから。何だかんだでそれくらいは…」
「…そうですか」
 と、言いながら、栗田はメモした鳥居の証言を、頭の中で再度追っていった。
 お産が終わったのが十二時過ぎ。それから鳥居先生が大野に会ったのが十二時半としても…。それから三時間話し込んでいたとしたら、午前三時半。
 そこから車を飛ばしたとしても、この病院から現場へは三十分は掛かるから…。
 ……大野は、犯人にはなり得ないのか…。
 こりゃ、被害者の浮気相手を探した方が早いかな。
「間違いはないですね?」
 栗田は念を押した。
 だが、答えは変わらなかった。
「はい」
「一一判りました。参考になります」
 礼を述べ、一礼して帰ろうとした二人の刑事を、鳥居は呼び止めた。
「……あの…」
「なんです?」
「大野先生、疑われてるんですか」
 遠慮がちに問いただすその顔は、少しだけ青ざめていた。
 栗田はそれを、身の回りに被疑者がいることへの、不安と取った。
「いいえ。捜査の参考までにお聴きしてるだけですから」
「それが、何か?」
 が、黒沢は、何か思う事があったらしく、少し固い声音で、医師を見返した。
 その視線に竦んだ様に、鳥居は二人に背を向け、窓から外を望む。
 そして、背を向けたまま言った。
「…別に、大野先生が犯人だなんて思ってないですけど…ちょっとね、変な噂を聞いたもんですから」
「噂?」
「ええ…。大野先生の奥さん、不倫して、その相手の子を身籠もったって…。でもね、ほら、噂は噂ですし、大野先生はあの日明け方まで僕と一緒だったんだから、犯人じゃないでしょうし」
 一一もう、噂が広まってるのか…。
 鳥居の言葉に、栗田は天上を仰いだ。
「そんな噂が流れてるんですか…。ま、参考程度にお聞きしときますよ」
 ばつが悪そうに窓の外を向いたままの医師を残して、二人は応接室を後にした。
「…田舎町の噂って、広がるの早いのな」
 歩きながら、ぼそぼそと嫌気がさしたように栗田は言った。
「気にするなって。それより捜査が振り出しに戻った事の方がショックだね、俺は」
 励ますように栗田の肩を黒沢は叩き、そして僅か落胆したように自身は肩を落とした。
 彼は、犯人の目星を大野に付けていたらしい。
「がんばりましょう」
 相棒を励ますように、栗田も肩を叩き返した。
 そして、病院を後にする。
 次は、足を棒にして、現場付近の聞き込みをするしかなかったから。

 

***

 

 病院を後にしてから日が落ちるまで、栗田達は被害者の家近辺を隈なく聞き込みして回った。
 大野家は、町の中心地から歩いて二十分程行った雲場池、通称『お水端』と呼ばれる池の近くにある。
 夏ともなれば、近くをサイクリングをしたり、ボートに乗ったりする若者で深夜まで人が途絶えない場所だが、今の時期は人も少なく、当然の事ながら事件の目撃者は皆無だった。
 はなからそれは期待していなかったので、二人はりんと秀明の人柄を中心に聞き込んで回った。
「大野さんの奥さん?あの、東京から来た、一寸派手な人でしょ?…別にこれといって変な噂は聞かないわねえ。旦那さんはお医者さんの割りは愛想の無い人だけど。頭の良い人は、どこかか変わってるのかしらね」
「…さあねえ…。これといって、特別な話はないね。先生の方は昔っからこの辺に住んでるから、良く知ってるけんども…奥さんの方は、ほら、五年前来たばっかりの人だから。何か、熱心に教会に通ってるようだったけんども、それくらいかね」
 一一だが、近所の住人達から聞こえてくる話は、事件とは何ら関わりの無さそうな事ばかりだった。
 栗田は、手応えのなさに、異常な疲れを覚えたが、黒沢は、違ったようだ。
「なあ、栗田。変だと思わないか?」
 彼が、受けたらしい手応えを話し出したのは、署へ帰る途中の、車の中の事だった。
「何が?」
「近所の人の話さ。皆、取り留めもない話ばっかりだったろう?」
「まあな。…だけど、それがどうかしたのかよ。あ、浮気なんかする様な女じゃないって言う話ばっかりだったのが、気に入らないのか?」
 なあにを言い出すんだか。
 黒沢の話を、そんな風に受け止め、栗田は車を飛ばす。
 だが、相棒は被りを振った。
「逆だよ。お前も俺も、田舎の出身じゃないから判ると思うけどさ、この町の人間って、噂話一一所謂、ゴシップって奴には敏感だろう?誰かが、道で転べは、翌日は町中が知ってる位に。なのに、皆口を揃えて、『大野さんの奥さんの事は良く知らない、悪い噂は聞かない』。変だと思わないか?」
「だから、何が」
「鳥居肇の話だよ。彼女は浮気してたらしいって噂を聴いたって、奴は言ったろう?俺達だって、彼女が不倫してた、なんて事は、今日の検死報告を読んで初めて知った情報なんだぜ?隣町の追分に住んでる奴が知ってる位なら、近所中は大袈裟としても、病院の看護婦が知ってたって、おかしくはないと俺は思うんだ。なのに看護婦達は誰もそんな事言っては来なかったし、近所のおばはん達も同じだ。彼が言う通り『噂』になっているんだとしたら、誰か一人くらいその事を口にしてもいい筈だ。けれどそうじゃなかった。……何で鳥居は、彼女の不倫を知ってたんだ?」
「確かに…変だな」
「だろう?」
 と言って、腕を組み、考え込んだ黒沢を栗田はそっと運転席から覗き見た。
 冷静沈着な相棒だ。俺は、そんなこと考えもしなかった。
 少しだけ恥じ入って、頬を染め、彼は再び正面を向いた。
 だが、一体どう云う事なのか。
 うーん、と唸った時、隣から、もう一度、意見が披露された。
「でな、栗田。俺が思うに大野りんの不倫相手は、鳥居肇だったんじゃないかな」
 一一確かに、そうなのかもしれない。
 そう考えれば辻褄が合う。
「ま、明日考えようや。明日は仏さんの葬式らしいし。ま、明日、な?」
 少し舞い上がった様に話し続ける相棒を、栗田は抑えるように言った。
 だが、相棒の推理をきっかけに、栗田も考えることを止められなくなっていた。
 彼の言う様に、鳥居肇が大野りんの不倫相手だったとして。
 だとしたら、彼も犯人ではなくなる。
 彼も又、犯行時刻は大野秀明と一緒だったのだから。

 姦淫をした側と姦淫をされた側が、互いのアリバイを証明しあっているのだから。
 一一そこまで考えて、栗田は意識をフロントガラスの向こうへと戻した。
 春の闇は、とても濃かった。

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